HISTORY

佐藤工業のあゆみ

EPISODE1

1862-1912

佐藤工業の原点。

時は幕末、文久2(1862)年。佐藤工業の前身「佐藤組」は、越中・富山で産声を上げました。富山平野・砺波平野には、立山連峰や飛騨高地から日本海へといくつもの川が走ります。その流れは激しく、大雨や地震のたびに氾濫を起こしていました。この地に生きる人々はその対策に苦労しており、なかでも柳瀬という村では庄川の急流を制するため人々が様々な工夫を編み出し、「柳瀬者」と言えば川除普請の技能者として広く知られるようになっていきました。その一人が、佐藤工業の創業者である佐藤助九郎。当時わずか16歳でありながら、近郷の者たちを束ねて佐藤組を結成。幾多の治水工事を成し遂げ、北陸地方で絶大な信頼を獲得していきました。

その後明治時代を迎え、佐藤組は初の建築工事である金沢第7連隊営舎の建築を陸軍より受注します。
また、人と物の往来が自由になっていく中で、川の多い富山では橋の建設が急務であり、この頃から助九郎は私費を投じて多くの橋を架設。わが国最大規模のトラス橋となる笹津橋などの賃取橋を建設していきました。なかでも佐藤組の名を一躍内外に轟かせたのは明治25(1892)年、越中屈指の暴れ川として知られた常願寺川の大改修工事でした。当時内務省から招聘されていたオランダの土木技師ヨハネス・デ・レーケの指導を受け、河川工事において日本初の機械工法を採用。通称柳瀬普請と言われた伝統技術との融合により、急流の制御に成功。その後、佐藤組は国道建設などの工事を次々に請負う他、東海道線、中央線、山陰線などの鉄道工事に従事。優れた機動力と組織力により、工事範囲は全国へと広がっていきました。

佐藤工業の原点。
EPISODE2

1913-1945

成長日本の礎を築く。

大正3(1914)年に起こった第一次世界大戦後、日本は未曾有の好景気になりました。国内経済の発展とともに電力の需要も増加。国内の主な河川には、水力発電所が開設されました。佐藤組でも発電所関連工事の受注が増え、大同電力桃山発電所(長野県)をはじめ多数の工事を担当しました。その後、大正12(1923)年には、関東大震災が発生。首都が被災したことで日本経済は深刻な打撃を受けました。またその一方で、日本の建築界にとっては地震多発地帯として独自の耐震設計の開発という、現代にも続く大きな課題が与えられました。

佐藤組は、組員、配下1万数千人を擁する業者に成長し、昭和5(1930)
年頃より本格的に東京に進出。翌年には組織を改め、佐藤工業株式会社を設立します。昭和になって、電力の需要がさらに増加するなかで、昭和11(1936)年には、秘境・黒部川で「高熱隧道」として知られる黒部川第3発電所の建設工事が開始されます。佐藤工業は、この歴史に残る難工事を総力を挙げて進めていきました。昭和12(1937)年には日中戦争が開戦。物資統制のため民間工事はほぼ不可能になり、佐藤工業は軍の要請を受けて中国や台湾、フィリピンに社員を派遣し、発電所や道路、飛行場などの建設を担いました。昭和20(1945)年に終戦となり、日本は焼土からの再出発をすることになりました。

成長日本の礎を築く。
EPISODE3

1946-1970

総合建設業への飛躍。

戦後の混乱の中、建設需要はあっても働き手の多くを戦争で失い、闇価格により資材は高騰。預金封鎖に加え、軍工事の代金支払い打ち切りと、建設業者は経営危機に立たされましたが、その後、昭和25(1950)年に国は復興5カ年計画を発表します。これにより道路や交通施設の復旧・新設、戦災にあった都市の再生、学校などの公共建築など、本格的な国土建設がスタート。エネルギーの中心である水力発電所の建設では、佐藤工業の長年培ってきた技術力やノウハウが活かされました。また、近代経営への体制を整えた佐藤工業は、総合建設会社へと飛躍していきます。

日本経済の高度成長時代の幕が開け、佐藤工業は戦前に比べて建築工事の受注比率が上昇。
官庁・民間、土木・建築を幅広く手がける総合建設会社としての地位を確立しました。また、トンネル技術は世界でもトップレベルに達し、“クロヨン”こと関西電力の黒部川第4発電所建設工事では、黒部ルートの掘削で日進25.1mという山岳トンネル掘削の日本記録を樹立。しかも、トンネル貫通時の中心線のズレはわずか2cmという驚異的な精度を実現しました。さらに昭和39(1964)年の東京オリンピック、続く昭和45(1970)年の大阪万博と建設ブームは持続。国の公共投資が増え、高速道路の建設や大規模な住宅建設事業が盛んになり、こうした国家事業や公共事業にも参加した佐藤工業は全国に支店を配置し社内機構を整備。また、研究部門の充実を図り、昭和40(1965)年には日本初の完全自動式シールド掘削機を開発。東北新幹線工事でその成果を発揮しました。

総合建設業への飛躍。
EPISODE4

1971-1989

世界のSATOへ。

昭和48(1973)年の第4次中東戦争を機に、いわゆるオイルショックが発生します。日本では列島改造ブームにより地価が高騰。インフレが進行したことで建設投資は急速に落ち込み、業界は「冬の時代」を迎えます。そのような逆境の中、佐藤工業は海外でも大型工事を受注するようになります。昭和52(1977)年に着工したシンガポールのベンジャミン・シアース・ブリッジは、技術面・美観面ともに優れた構造物となりました。一方国内では、昭和50年代後半に民間資本の導入によって公共事業が推進されます。本四架橋、東京湾横断道、関西国際空港などの大型プロジェクトが再開され、佐藤工業はこれらに参加。トンネル工事では世界最大径のシールド機を東北新幹線第2上野トンネルに採用するなど、さらに技術力を高めていきました。

2度にわたるオイルショックの後、日本経済は「重厚長大」から「軽薄
短小」へと省力化・ソフト化への傾向を強めます。この頃から佐藤工業は、土木・建築と並ぶ柱として開発事業に注力。西新宿浄風寺周辺地区の再開発事業では佐藤工業初の超高層となる新宿グリーンタワービルの建築も手がけ、高い評価を得ました。 昭和60(1985)年、日米経済摩擦を背景に政府は内需拡大政策をとります。金融緩和と景気拡大の中、日本中で都市開発が盛んになりました。空前の建設ブームによって建設業は高度成長の波に乗り、業容を拡大します。
しかし、その数年後にバブル経済が崩壊。この頃から管理業務の合理化や高度化、技術的な問題解決を目的に、管理システム(TQC)が導入されます。これにより品質重視の経営がなされ、佐藤工業においても「建設品質。」のもと、顧客重視の幅広い活動を推進していきました。

世界のSATOへ。
EPISODE5

1990-2019

新生・佐藤工業の
新たなスタート。

平成元(1989)年、戦後40年も続いた東西冷戦構造が崩壊し、世界は新しい時代を迎えました。日本ではバブル経済がその後深刻な問題を残し景気が停滞。平成7(1995)年の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などの社会不安や国際的金融自由化による銀行の大型再編が相次ぎ、混沌とした時代が続きます。欧米にも進出していた佐藤工業は、こうした中で、平成3(1991)年にアメリカ・アトランタでジョージアン・テラス・プロジェクトを完成させます。また、阪神・淡路大震災により甚大な被害を受けた神戸高速鉄道東西線「大開駅」の復旧工事では7ヵ月で通過復旧を実現し、震災から一年後には駅の供用を開始して、全面復旧を果たしました。

長引く不況の中にあって、各企業は抜本的な体質改善、収益体質の強化を進めます。佐藤工業も同様に、経営構造の改善を断行。平成11(1999)年には経営再生計画を発表しますが、経済・社会環境等の悪化から平成14(2002)年に会社更生手続開始申立、手続開始決定を受け、新たなスタートを切ることになりました。

新生・佐藤工業は、かつてない苦境にありながらも多くの支援と協力
を得て、とどまることなくいくつものプロジェクトを形にしていきます。平成16(2004)年には世界最長の陸上トンネル・八甲田トンネル市ノ渡工区が貫通。平成17(2005)年には、シンガポールの新たな最高裁判所が、また平成21(2009)年には東京大学(柏)数物連携宇宙研究機構棟が竣工。さらに、平成22(2010)年にはシンガポールのベイフロント・ブリッジが開通しました。そんな中、平成23(2011)年には東日本大震災が発生。日本中に大きな被害が発生する中、佐藤工業は、全社をあげてさまざまな災害復旧・復興支援に取り組み、復興支援道路やトンネルの建設など、自らの技術を生かした支援も積極的に行いました。また、佐藤工業が得意とするシンガポールでの展開についても歩みを止めず、平成26(2014)年にはシンガポールの歴史的建造物を復元したヴィクトリアシアター&コンサートホールを完成させます。やがて時代は平成から令和へ。令和元(2019)年には、沖縄県の数久田ダム、佐賀県の九州新幹線(西九州)大山路高架橋、そして広島県のはつかいちエネルギークリーンセンターを竣工。元号が変わっても佐藤工業の躍進は止まることなく、多くのプロジェクトを推進していきました。

新生・佐藤工業の新たなスタート。
EPISODE6

2020-

変化の時代を
乗り越えていく力。

令和2(2020)年、新型コロナウイルス感染症の影響により景気は急速に悪化。外部環境は大きく変わり、建設業のみならず各企業がその急激な変化に柔軟に対応することが求められる時代になりました。佐藤工業は、「強固な経営基盤と高い収益力を持つ企業グループの実現」とともに、「スピード感を持って施策の実行」を掲げ、ウイルス感染に細心の注意を払いながらも事業を推進。創業よりパイオニア精神でいくつもの難工事に挑み、多くの信頼を得てきた経験を糧に、社員一丸となって総力を結集し、この難局に立ち向かっています。

そんな中、令和2(2020)年には屋内環境や使い勝手を音楽コンサートに最適化した1万人収容可能なアリーナ「ぴあアリーナMM」を神奈川県にて竣工しました。この他にも、全国各地で多数のプロジェクトがコロナ禍の中、動き続けています。

近年多発する予想を超えた自然災害についても、当社は災害の復旧や防災・減災につながるプロジェクトに積極的に参画。
地球温暖化問題に対しても、太陽光発電など再生可能エネルギーを活用するなど取り組みを進めています。これらの環境保全に対する取り組みへの約束が評価され、環境大臣より「エコ・ファースト企業」の認定を取得。この約束を着実に推進していくことで使命を果たしていきます。

また、令和12(2030)年の達成を目標とする「持続可能な開発目標(SDGs)」への取り組みも積極的に推進。建設会社として重要な優先的課題を認識し、CSR活動を戦略的に中核の事業活動に組み込み、中長期的な企業価値向上を図る取り組みを推進していくことで、企業としてのあるべき姿をめざしていきます。

不可能を可能にしてきた長い歴史の中で培い継承してきた高い技術力と「建設品質。」の精神。これらをもとに、「時代を先んじる、次代を見据える」ことを常に意識し、これからも佐藤工業は時代とともに、 社会とともに歩み続けていきます。

変化の時代を乗り越えていく力。